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[04 スリー・ポインテッドスター]

ハリアー(トヨタ)を知ったのは1999/1のTV-CMです。ひと目惚れでした。
しかし、セレナ(日産)の初車検を済ませたのは1998/12であり
乗換えの予定など全くありません。
しかし、というかやはりと言うか1999/3にハリアーを購入。
そして、ハリアーを通して素敵な出逢いと多くの友人を得ました。
因みに、ハリアーは私を教習所に行く事を決意させた車でもあったのです。
教習所の手続き:1999/3/4。
ハリアーの納車:1999/3/6。
   免許取得:1999/5/20。


そんなハリアーを手放し、次に乗換えたのは、同じくトヨタのアルファードという
ミニバンです。それは、シャロン(ゴールデン・レトリーバ)と一緒の旅でも
車中泊が快適に出来る車が欲しいと思ったからでした。
エンジンはハリアーと全く同じ 1MZ-FE V6-3000ccでした。
3000ccの中では低燃費ではあったようですが、2トン近い車体と
都内の渋滞で平均燃費は7km/Lにも行きませんでしたね。
所有年数 約3年3ヶ月、36,000km。


セレナもハリアーも3年3ヶ月で手放しました。
でもアルファードは乗れるまで乗る、というつもりで居ました。
が、しかしやはり3年3ヶ月で手放しました。
セレナもハリアーもまぁ積極的に手放した、という感じですが
アルファードは違います。
手放さずには居られない状況になったからでした。


2004/11 突如 歩行が困難になり約1ヶ月の透析治療の送迎を
しました。由来をお読み居たたければお解かり頂けると思います。
2005/12 クシャミが原因で左足大腿部を根元から骨折。
慶応医大付属病院に救急搬送するも、ベッドの空きがなく
東邦医大大付属病院に受容れ要請をし、OKとの事で救急搬送し即 入院。
しかし透析患者は日頃から血液が固まりにくくする投薬をしているので
直ぐに手術が出来ず、ようやく人口骨董を利用する手術を済ませたのは
入院から9日目の事。手術そのものは成功するも術後の状態があまり良くなく
退院の目処はまったくつかないままの年越となりました。


年が明けて正月の雰囲気も街から無くなり、何時もの日常に戻った頃
郵便ポストに入っていた一枚のチラシ。分譲マンションのチラシでした。
何時もならろくに目もとさないままゴミ箱行きのチラシ。

思わず考えたのです、、、。もし車椅子という状況になったら、と。
その時の住まいは5階建ての公営住宅の2階。エレベータはありません。
車椅子での生活は絶対に無理。週3日、1日おきの透析治療でクリニックにも
通わなければなりません。
当然、公営住宅ですから事情を考慮して1階に転居する事は出来るでしょう。
しかし、何処の地域に行くことになるか、またどの程度の期間を要するか
全く分かりません。でもその間もクリニックに通わなければならないのです。
やはりクリニックに近い所に転居した方が良い。しかし、ゴールデンのシャロン
が居る。大型犬OKで、クリニックにも近い賃貸物件があるのか?。
勿論 No。では分譲住宅は?。平屋の分譲住宅なんて、そのクリニック周辺に
ある訳がない。それなら分譲マンションは?。



ネットで検索すると 何と!!大型犬OKでクリニックの最寄り駅の二つ手前の
駅近かに建築中の分譲マンションがあったのです。
それまで、真剣にMyHOMEの購入を検討した事など一度もありません。
なので、勿論 十分な購入資金もありません。あるなら公営住宅には居ませんょね(笑)。
というか、居た場所がばしょなので(東京都世田谷区成城) MyHOMEの事など別世界
の事でしたから。真剣に考える思考性は全く無かったです。


兎に角、MR(モデルルーム)に行きました。中々と感じの良い若い営業担当者。
十分な購入資金はない、チョットと無理して購入した車のローンがある
何故 ここに来たのかというような事を説明しました。

必ず何とかします。という力強い返答。まぁー営業だから当然と言えば、、、。
でも、大手のデベロッパーではまず無い対応です。
「私どもは大手と違い、看板では商売出来ません。あくまでお客様の立場に
たって誠心誠意 対応させて頂けなければ中々と販売できませんので」、と。
中々と率直な営業トーク。でも確かにその通りでしょう。
中でも購入資金調達の相談。これが一番重要なようです。


という事で、この話をもって入院先の彼女に話すも、話半分の様子。
まぁーそりゃそうですょね。兼ねてから私は、マンションのような
集合住宅は嫌。「広ーい庭があって、大きな桜の木があって」という
ような夢のMyHOMEの話をし、そうでなければ住宅ローンなんて絶対に
嫌だと言っていた私でしたから。


私が考えたのは彼女の生活空間を如何に快適にするか、そしてこの骨折入院
があったからこそ、MyHOMEを持つに至ったんだと思わせてやりたかったのです。


具体的な話を何回かする中で、彼女に私の本気度が伝わったようでした。
2月の中旬になってようやく外泊許可が出たので、その折 MRに連れて行ったのです。
先日まで私もそうでしたが、当然 彼女もMRの見学なんて初めてです。
なので、どうか と尋ねられても答えられる筈はないんですが、、、。
選択の余地はないのです。クリニックには車であれば7,8分。電車でも2駅
さらにシャロンもOK。クリニックの院長が助教授として席を置いていた
大学病院にもとても近い。透析治療以外の様々な治療の中心病院がまさに
その大学病院なのです。
生涯治療をしていかなければならない透析患者の彼女にとってこれ以上の
物件なんてある筈がないのです。

それで結局、その時に「重要事項」の説明を受け、仮契約をしたのです。
そして退院は2/27、本契約は自宅で翌 28日でした。


それからが大変です。ローン契約の受入れ先を探すのが、、、。
と、同時に建築中という事で色々な設計変更をしたのです。
この辺がまた大手にはないサービスですね。
しかし結構な変更となり金額も大きくなってしまい、これも含めての
ローンとなったのです。


ただし、この設計変更は物件契約とは別契約。即ち物件契約を解約しても
設計変更の契約は解約出来ません。もし、変更工事が済んでいた場合は
現状復帰費用の支払い義務をも持たなければなりません。
変更工事費用は約\150万でした。現状復帰となればほぼ同額の費用が
発生します。即ち約\300万の原則 一括支払いが生じます。


ではどのような状態になるとその支払いが生じるのか?。

1.ローンの受け皿が見つからず、本物件の解約をしなければならない。
2.此方の事情で解約する。

1は絶対に何とかなると思っていました。というか、すると。
では2はあり得るのか。彼女が亡くなった場合だけです。
なのでよく冗談で、僕が居なくなってもこの契約で君に迷惑が掛かる事は
絶対にない。しかし、君が居なくなったら大変な事になるからね、と。
勿論、そんな事になろう筈がないと思っているから言える笑い話なのです。


しかし、事実は小説より、、、。


その年の10月上旬に小脳出血を発症し、聖マリアンナ医科大学付属病院に緊急搬送。
勿論 意識不明の重体です。しかし 一命は取りとめ10日間のICUでの治療を済ませ
一般病棟に移動。空間、認知、言語、運動障害と様々な障害がありましたが
運動障害以外は徐々に回復の兆しを見せ始めていました。


半年前に購入していた、ある公演の上演が近づいていました。
2人だけはなく、あのハリアー仲間と一緒に観劇する予定だったのです。
なので、彼女は行く事を 強く私に勧めていました。


結局 その言葉を受け入れ渋谷のオーチャードホールに行ったのです。
実はその時 その場所に幸子も来ていたのです。勿論 それは幸子との
交際が始まってから分かった事です。


当時のマリアンナ医科大学付属病院にはリハビリの専門医が居ない事もあって
リハビリに力を入れている病院への転院を薦められ、紹介された病院があり
ました。その病院は回復の見込みのない患者の受け入れは、していません。
なので事前にその病院での面接診療をうけなければなりません。
幸いに彼女の受け入れはOKとなったのです。即ち、どの程度まで回復するか
という処までは分からないまでも、回復する見込みが十分にあるという
結果だった訳です。担当医からは自立歩行が出来るまでの回復は何とか
できるようになるでしょう。がんばりましょう〜と。


このような状況になって、ある意味 MyHOME購入の決断は英断だったと
確信しました。


しかし転院しリハビリが始まってから約2週間後の12/1 午前6時半頃
大脳出血を発症してしまうのです。朝 7時前に病院から彼女の病状を伝える
連絡が入り直ぐに来院して欲しい、と。
勿論、飛んで行きました。そしてCT画像を見せられ、、、、。
先の小脳出血の折にCT画像の見方の説明を受けていたので、もぅ私には説明の
必要はありません。


よって、見た瞬間 今回は覚悟しなければならない、と流石に思いました。
その頃はもぅ資金繰りの問題は解決しており、後3ヶ月後に迫った
引渡しの日を待つだけになっていたのです。


私は常々彼女に言って居ました。私に万が一の事が起こり、延命治療が必要に
なっても絶対にするな!、と。そして彼女も同感だと。


もぅ自力での呼吸は出来ない状態です。初めて「延命治療」の重たさを知りました。
幸いにも私にも彼女にも偉大な生命哲学がありました。その思考性は生命は永遠と。
されどどのような状況でもいいから、生きていて欲しいぃーと初めて思いました。
しかし、再発から24時間を待たずに息をひきとりました。


数年前に父を亡くし肉親との死別は経験しています。しかし、特段の悲しみはなく
お疲れ様というようなある種、安堵した気持ちでした。
まぁこの事を話すと、また長々となるので勿論割愛します。

処が彼女の死に対する感情は勿論、それとは全くの別物でした。
仏法用語に愛別離苦という言葉がありますが、愛別離苦の苦悩とはこうゆう
事を言うのか、と。病苦とはこのような事なのか、と、、、。


育った環境は世田谷区成城という、如何にもお坊ちゃま育ち。
いえいえ とんでもありません。高校の授業料も大学の授業料も自分で払わなければ
ならなかった、貧乏育ちです。実は私は実の父親は知りません、、、。
この事も長くなるので割愛します(笑)。


よって、チビノ頃から結構 キツイ家庭環境で育ってきたお掛けで
多少のことでは何も驚きもしないし、動揺もしません。鈍いだけ?(笑)。


しかし、彼女の死は本当にきつかった。


息をひきとる1時間程まえから、づっーと一緒に付き添ってくれた夜勤の看護師の
方が居りました。本当に心強かった。
亡くなった直後、彼女の体を清めてくれたのもその方でした。
その間私は待合室という所で一人、その処置が終わるのを待っていました。
12月の明け方近く、そぅ午前4時頃でした。

その折ある方の言葉が思い起こされました。
   「病人と貧乏人をなくす事が 使命だ」、と。
学生時代から何度と無く、聞いてきた言葉です。
偉いなぁー、凄いなぁーと思って来ました。しかし、この時初めて
その言葉の真の意味と深さを知った思いでした。
そして改めて、戸田先生は凄い先生だと。
無論、実際に病気が無くなる事はないのでしょう。
いゃもしかすると、、、、。
いえ、そんな次元の話ではありまん。
本気で「なくそうとした」その生き方、精神性の偉大さに改めて
気づいたという事なのです。正確には、やっと気づいたのかも
しれません。


そしてそのきっかけが奇しくも彼女の死です。
私が言うのは変だと思いますが、死して尚、、、。


ようやく四半世紀に及ぶ長いながい透析治療を終えたのです。
死によってしか終える事の出来ない治療です。


後少しで新たな新生活が始まると言うのに、、、。
彼女の事を考えての決断だったのに、、、。
運動機能障害で不自由になっている手で、入院中 彼女は大学時代の友人に
新居が完成したら、ゲストルームもあるので泊まりで遊びに来て欲しいという
内容の手紙を書いて居ました。そしてそれを私に渡して、投函して欲しい、と。


結局その手紙は葬儀の際、その友人に手渡しで渡しました。
どれほどか楽しみにしていたことか!。


骨折する3ヶ月前に同居していた母、私にとっては義母を82歳で見送った彼女。
父親は91歳で私と結婚する1年前に他界。1人居る弟は彼女がまだ20代の頃に
渡米し永住。27歳で透析治療が始まり、年老いた両親を支えながらの生活。
37歳で私と結婚。


母親は亡くなる3ヶ月前くらいから寝たきりの状態になり
彼女が献身的に世話をしていました。
その母親の納骨は彼女の骨折・入院があり中々と出来ないでいたのです。
ようやく納骨したのが2005/9です。彼女が小脳出血を発症する 1ヶ月前の事です。


  2004/09 母親が他界
  2004/11 歩行困難になる
  2004/12 左大腿部骨折で入院/手術
  2005/02 退院
  2005/09 母親の遺骨を納骨
  2005/10 小脳出血
  2005/11 リハビリの為転院
  2005/12 大脳出血で他界


これだけでは中々と伝えられないと思いますが、自身が透析治療を受けなければ
ならないという大きなハンデを持つ中、年老いた両親を支え、そして最後まで
母親を看(み)て そしてキチンと納骨を済ませて逝った 見事な一生という他はない!。
特別な財産もない、妊娠/出産も出来ない、年老いた母親(目が不自由)さらに高齢。
しかし、そんなハンデを持ちながらも結婚が出来た。


誤解されると嫌なので、一言
私自身は、財産のある/なし、妊娠/出産が出来る/出来ないなんて事、何とも思いません。
思っていたら結婚なんかしてませんょ。
しかし、まだまだそのような事で差別する風潮があると思わざる終えないので。
バカな発言をする閣僚がたりもしますしね。


幸子に逢わせてくれたのは実はシャロンだけでなく、彼女だと思っているのです。
だって、シャロンを連れて来たのは彼女ですから。
再び、由来をお読み居たたければお解かり頂けると思います。


エッ、表題の「スリー・ポインテッドスター」は何だって?。
アッそうでしたね。内容は「スリー・ポインテッドスターU」に回します(笑)。

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